月報2015年8月号「私たちは祈られています」

「私たちは祈られています」

彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 (使徒言行録13章2-3節)

私は日本基督教団(UCCJ)宣教師としてシカモア教会に遣わされています。渡米直前には「派遣式」というものがあり、そこではこれまで関係を築いてきた人々が私に手を置いて祈って下さいました。「シカモア教会のこと、また吉岡牧師とご家族のことをこれからもずっと祈り、支えていきます」そう祈って下さった方々の声が今も私の心に響いています。

聖書の時代においても、宣教のスタートにはいつも教会の祈りがありました。初代教会のリーダーであったバルナバとサウロ(パウロ)は宣教旅行へと旅立つのです が、その時にもアンティオキアの教会に集う人々から手を置いて祈られたのです。その祈りは宣教へと赴く人を支えるのみならず、彼らが遣わされる先々の地、そこに生きる人々にも大きな励ましを与えました。

私たちの教会は小さな教会ではありますが、たくさんの人たちに祈られています。今この時も、私たちの教会を覚えて祈って下さっている人々がたくさんいるのです。私たちは祈られていることになかなか気づけません。しかし、確かに私たちは祈られています。日本で行われた「派遣式」において、私はそのことを実感したのです。そしてこの恵みと喜びを、シカモア教会の皆さんにも分かち合いたい。知っていただきたいと心から思いました。

祈られる喜びを知っている者は、祈ることの大切さも知っています。私たちも今、祈られる喜びを知りました。 それならば、私たちも祈りましょう。「今日も誰かが、私のことを祈ってくれている」。その気づきがどれほど私たちを励ましてくれることか。祈りは、時も場所も超えて、人と人とを結び、人を生かす力となるのです

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