2018年月報5月号巻頭言「不思議さの正体」

「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに行った。」         (使徒言行録2章12節)

4月1日(日)のイースター合同礼拝において、萬タシャさんが洗礼を受けられました。萬タシャさんは既に5年以上日語部の礼拝に出席してくださっていますが、主の導きによって、信仰の決断を与えられました。

タシャさんが教会と出会ったのは、幼い頃でありました。お父様が日本人、お母様がアメリカ人というご家庭でありましたが、お母様は熱心なクリスチャンで、日曜日になるとお母様と一緒に京都の教会に行くことがしばしばあったそうです。しかし、大きくなるにつれて、タシャさん自身の意思で教会に行くということは少なくなっていきました。

時が経ち、タシャさんはご家庭を持つようになりました。ある時タシャさんは、シカモア教会を会場にして行われている文化キャンプというイベントに子供達を連れて行きました。タシャさんは始め、そこが日系教会であることを知りませんでしたが、教会に日本語の掲示板があることに気づき、ここが日系教会であり、日本語の礼拝も行なっていることを知り、以来、幼い頃を思い出し、また既に召されたお母様の信仰を探し求めるようにして、礼拝に出席し続けて来られました。そして5年以上の求道期間を経て、この度洗礼を受けられたのです。

人が教会に出会い、信仰に導かれて行くという道のりは、本当に不思議な過程をたどるものだと思わされます。「あの時、あそこに行かなかったら…あの時、あの人に出会っていなかったら…あの時、あの出来事に出会っていなかったら…あの時、あの判断をしていなかったら、私は信仰を知らなかった。」信仰を与えられた者が過去を振り向く時、そのような「不思議さ」に気付かされるのです。

人間の思いを超えた「目に見えない何か」によって、私たちの人生は導かれている。聖書はそれを、「神」と呼び、共にいます「キリスト」と呼び、風のごとく私たちに働き、私たちを突き動かす「聖霊」と呼ぶのです。「不思議さ」の背後に何があるのか。聖書はその正体を私たちに教えてくれるのです。不思議さの背後に父子聖霊なる神の働きがいつもある。このことを覚えましょう。

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